鞆 史
〜鞆の浦の歴史・伝記〜
江戸時代篇
制作/編集:全国一斉 鞆の浦検定
この年表は制作途中です.随時更新しています。
江戸時代 | Edo Period. | 1600〜1867 |
鞆史 |
西暦 |
元号 |
藩主 |
鞆奉行 |
人物・神社仏閣 |
事件・出来事・由緒など |
1600〜 |
慶長 |
福島正則 | 村上左衛門助康 1573〜1591年 |
圓福寺 | 鞆城が築城され、大河島は陸続きとなる。大河島城趾に圓福寺を移設。福島正則家老・大崎玄藩がこれを担う。 |
顕政寺 | 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、正善院日実という僧侶が1600年頃に再興し、真言宗から日蓮宗に改宗。二代・日運は、本堂と 庫裡を拡張する事績を遺し、 | ||||
医王寺 | 慶長年間(1600年頃)、福島正則が藩主となり、鞆城代・大崎玄藩(げんば)がこれを再興した。 | ||||
妙蓮寺 | 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられる。 | ||||
町割 | 慶長年間、芸備藩主・福島正則により、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割)が形成された。 この頃、松の木が数本生えていただけの入江は開墾され、のちの鍛冶町となる。また、江の浦寺町付近に散在していた遊郭を一箇所に集め有磯(ありそ)町と呼ばせた。元和・寛永期には鞆遊女屋の公認がおこなわれていたようである。 |
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1602年 |
慶長7 | 明圓寺 | 慶長7年(1602年)に顕如上人は徳川家康援助により、東本願寺を創設。その時も長存は西国末寺中一番乗りで馳せ参じ尽力した。その功績が認められ、教如上人より『平村 松江山明圓寺』の寺号を賜る。 | ||
慈徳院 | 芸備太主・福島正則を大檀越として松雪得松禅師という高僧が開創する。次いで、中興の祖といわれた月湛(げったん)亮和尚が本堂を再建した。その芸備藩主の福島正則は、キリシタンに対して友好的であり、妻子は洗礼を受けたと言われる。 海駅であった鞆には、そうした藩主の中でキリシタン文化が広まった。 |
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1605〜 | 慶長 | 大観寺 | 宝嚴寺(恵日山)真言宗草戸明王院末 のち昭和十三(1938)年に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合する。 |
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常喜院(東英山)真言宗草戸明王院末 慶長十(1605年)年頃の建立。 のち昭和十三(1938)年に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合する。 |
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1607年 |
慶長12 |
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朝鮮通信使 | 第1次 朝鮮通信使 日朝国交回復、捕虜返還のため来訪。正史/呂祐吉 |
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阿彌陀寺 | 天誉上人という高僧が永禄八(1565)年に鞆・古城山の西脇に移し、開山と称えたが、次代が慶長十二(1607)年に現在地に再転された | ||||
1608年 |
慶長13 | 水野勝成 | 三河刈谷藩主となった勝成は備中国成羽から妻子(お登久と勝俊)を呼び寄せ、勝俊は徳川秀忠に仕えることになる。 | ||
1609年 |
慶長14 |
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鞆城 | 一国一城令により、鞆城は廃城となる。 |
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1610年 |
慶長15 |
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圓福寺 | 室町時代から「釈迦堂」といって現在の沼名前神社南側・小松寺の東側にあったものを当時の住職・快音が、慶長年間末頃(1610年頃)現在の大河島に移した。大河島城趾に圓福寺建立、完成。 |
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小松寺 | 久留米梅林寺二世・湘山玄燈が再興。 | ||||
本願寺 | 慶長十五(1610)年の町割時に北の端に移された。本願寺別名・沖見堂(沖御堂)は、尼寺であったという記述がある。 |
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1611年 | 慶長16 | 明圓寺 | 「絹本著色/顕如上人画像」が伝来。 | ||
加藤 清正 | 慶長十六年六月二十四日(1611年8月2日)死去。 | ||||
1614年 |
慶長19 |
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水野勝俊 宮本武蔵 |
大坂冬の陣では宮本武蔵が勝成の元に参陣し勝俊を守っている。 |
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1615年 |
元和元 | 水野勝成 | 大坂夏の陣にて、大坂城桜門に一番旗を立てる。論功行賞では、2・30万石の知行を期待していたが、実際には3万石加増の6万石で転封されるに留まった。大和郡山。 | ||
淨泉寺 | もともと、水吞村鍛冶屋にあったが、水吞村は法華寺でかためられていたため、元和年間(1615~1624年)慶存(墓石には閑誉上人)という院主が現在地に移し、阿弥陀寺の末寺となり創建と伝えられる。鞆・関町の海岸にあるため、関阿弥陀寺とも呼ばれる。 | ||||
1616年 |
元和2 |
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江戸幕府 | 明(中国)以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。 |
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静観寺 | 久留米梅林寺二世・湘山玄燈が再興。妙心寺派に属す。 | ||||
1616年 |
元和3 |
岡本傳之丞 |
沼名前神社 | 福島正則、領内巡視の上、鞆奉行・岡本伝之丞に祇園宮の改修、三十六歌仙の扁額を奉納と命じた。 |
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1619年 |
元和5 |
水野勝成 |
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水野勝成 水野勝俊 |
福島正則、一国一城令違反の罪により改易。領地没収、信州川中島に謹慎された。これにより水野勝成は備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられた。 ※このとき笠岡と尾道とを受領交換したとされる。 嫡男・勝重(のちの勝俊)は福島正則の築いた鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため「鞆殿」と呼ばれたという。 |
1622年 |
元和8 |
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福禅寺 |
藩主 水野勝成により堂塔の修復、また、荘園も与え、以後、水野家の藩主は福禅寺に対し崇言された。 |
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福山城 | 近世城郭の完成形・名城福山城完成。 西日本の徳川幕府防衛拠点として築城された。五重の天守に七基の三重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城。 |
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1623年 |
元和9 |
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小松寺 | 久留米梅林寺三世・澤雲禅師が、京都妙心寺派として再興。その後、安国時末となり、現在は妙心寺派に属す。 |
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正法寺 | 深溪和尚が妙心寺の末寺として再興をし、のちに安国寺の塔頭六ヶ寺の一つ(末寺)となった。深溪は庭作りの趣味を持ち、奇木、珍石を多く集めて寺庭に数奇を凝らしたという。「あくた川のまき/天和元(1681)年」には、『ひとやらぬ花はむかしの作り庭』と発句した。 | ||||
1624年 |
寛永元 |
江戸幕府 | スペインとの国交を断絶、来航を禁止する。 |
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1624〜 |
寛永 |
圓福寺 | 後地にあった小坊・護念寺、圓福寺と合併する。(護念寺僧侶・宥長) | ||
1625年 |
寛永2 |
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鳥衾鳥居 | 6月 のちの二代福山藩主 勝俊(勝重)は鞆で生まれた長子・勝貞出生と息災延命を祈念し石華表(鳥居)<県重文>を鞆祇園宮に寄進。 |
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1626年 | 寛永3 | 南禅坊 | 絹本著色親鸞上人像に寛永三(1626)年の墨書あり。 | ||
妙蓮寺 | 寺宝の日饒(にちじょう)上人の御本尊大曼荼羅(寛永三年・1626年)が現存する。 | ||||
1630年 |
寛永7 | 水野勝成 | 全国初ともいわれる「藩札」を発行。 | ||
1631年 |
寛永8 |
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江戸幕府 | 「奉書船」制度開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要とする。 |
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1632年 | 寛永9 | 備後安国寺 | 福山二代藩主・水野勝俊の子、多門が6歳で天世し、供養のためと共に世の人々の子の冥福と安穏を願い、子安観音像を安置し、子安観音堂、多門の五輪塔を建立。 | ||
1633年 |
寛永10 |
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神輿 | 清春院(勝成の妹にあたり、加藤清正の正室)が神輿三基を鞆祇園宮に寄進。 第一次鎖国令発令。 |
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法宣寺 | 法界石塔 寛永十(1633)年二月建之 |
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1634年 |
寛永11
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江戸幕府 | 第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。 |
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琉球使節団 | 第1回 琉球使節団来航 |
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1635年 |
寛永12 |
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江戸幕府 | 第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。日本人の渡航と帰国を禁じた。 |
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明圓寺 | 市重文「絹本著色/顕如上人画像」は寛永12年(1635年)作。 | ||||
1636年 |
寛永13 |
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江戸幕府 | 第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、その他ポルトガル人を長崎出島に移す。 |
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1638年 |
寛永15 |
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能舞台 | 水野勝俊「島原の乱」参陣、勝成に従い息子・伊織と伴に総攻撃で原城への一番乗りを果たす。この時、伏見の能舞台を島原に持参している。 |
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水野勝俊 | 水野勝俊、福山城へ入城居住。 | ||||
南禅坊 | 寺に伝来した「絹本著色聖徳太子像」は剥落した賛に寛永十五(1638)年の墨書がある。 | ||||
1639年 |
寛永16 |
水野勝俊 | 荻野新右衛門 |
水野勝俊 | 「鞆殿」勝俊、勝成から家督を譲り受け備後福山藩二代藩主に就任。以後、新田開発や領地の整備に奔走した。 |
1639年 |
寛永16 |
江戸幕府 | 第5次鎖国令。 ポルトガル船の入港を禁止。 |
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1640年 |
寛永17 |
江戸幕府 | マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。幕府、使者61名を処刑。 |
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1640頃 |
寛永年 |
ささやき橋 | 寛永年末頃、古い橋の残骸を掘り出して跡を残し、今は石橋が渡してある |
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1641年 |
寛永18 |
江戸幕府 | オランダ商館を出島に移す。 |
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1642年 |
寛永19 |
荻野新右衛門 | 鞆奉行・荻野新右衛門重富、妻の墓を皇后島に建てる。妻の墓には「寛永十九年正月二十五日」と刻まれている。 |
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医王寺 | 前藩主水野勝成による鐘楼が建立。その後修復されている。鐘は鞆の商人から寄進されたが、その後供出され、近年新造された。 | ||||
1643〜 |
寛永 | 三郎石 | 鞆奉行・荻野新右衛門により澪木(水先案内に立てる木)を立て渡航者に標した。 | ||
1644年 |
正保元 |
荻野新右衛門 | 鞆奉行・荻野新右衛門により弁天堂再建。船番所・遠見番所を設置。著書に「鞆浦さすらひの記」、「鞆記」に『百貫島伝説』が記される |
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明圓寺 | 鞆奉行の荻野新右衛門が寄進(一部)、鞆の浦の寺院では、江戸時代末と昭和の金属供出をまぬがれた2つの梵鐘の内の一つであり、江戸前期の朝鮮鐘形式も取り入れ、貴重な梵鐘である。 | ||||
妙蓮寺 | 実相院日玖は年壮にして俗塵の交断ち、法宣寺十四世恵性院日親の徒弟となり、圓浄坊と結び引き蘢り、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよび、福山藩主・水野勝成殊勝に思い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を給う。 本堂は壇中、小林喜兵衛、佐久間七良衛門、石井庄右衛門等、主として浄財を募り建立。 上京し、本山から山号・寺号を請受した。 福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。 |
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鞆遊郭 | 伊予国の住人宮内がここで遊女を抱えたことに始まる。 | ||||
1644〜 |
正保 |
善行寺 | 玉伝和尚の子・玉真が、正保年間(1644~1647)年頃、現在地に再移転した。 | ||
1645〜 |
正保 | 玉津島 | 禿げ山だった玉津島に鞆奉行・荻野新右衛門により、小松を植えた。 | ||
1646年 |
正保3 |
荻野新右衛門 | 鞆奉行・荻野新右衛門、福山総奉行となる。 |
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1647年 |
正保4 | 酒井七郎左衛門 |
大阪屋 | 大阪屋・上杉平左衛門死去 | |
1648〜 |
正保 | 小松寺 | 福山藩主・水野勝成が寺域の大半を祇園宮(現:沼名前神社)社地とした。この時、本尊だった平重盛・護身阿弥陀仏像は、水野勝成が回収し、水野家菩提寺(賢忠寺)の本尊とした。 | ||
大観寺 | 増福寺(令法山)真言宗草戸明王院末 もともと渡守神社の前にあったが、慶安年中(1648~1652)現在地に移転。 のち昭和十三(1938)年に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合する。 |
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1650年 |
慶安3 |
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沼名前神社 | 水野勝成、鞆祇園宮に釣鐘を寄進。鐘銘には「古来商旅貿易之地也」と記されている。 |
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伏見の能舞台 | 先代福山藩主 水野勝成が徳川秀忠より「伏見の能舞台」を拝領。のちに三代藩主 勝貞が鞆祇園社に奉納。 |
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1651年 |
慶安4 |
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石燈籠 | のちの三代福山藩主 水野勝貞寄進。祖父勝成重病と聞き、病気平癒を祈念して太刀一振りと、拝殿前に一対の石灯籠を奉納したものと言われる。この年、勝成死去。 |
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1652年 |
承応元 |
阿弥陀寺 | 阿弥陀寺の釣鐘、遊女屋「四軒屋」の一角、奈良屋により寄進される。 | ||
妙蓮寺 | 三十番神堂は、承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる。 | ||||
1653年 |
承応2 |
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渡守神社 | 水野勝俊夫人・静珠院の祈願で社殿を修造 |
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1654年 | 承応3 | 備後安国寺 | 五輪塔・鞆の津塔建立。 | ||
1655年 |
承応4 |
水野勝貞 | 水野勝貞 | 勝俊の病死により31歳で藩主を相続。領内の寺院を保護し、文芸の興隆にも努めた。京都から俳人 野々口立圃を呼び寄せ、多くの門人を輩出させ、城下の寺院で度々芝居を催した。また、草戸稲荷神社前には遊女町を造ったといわれる。 この年、大阪で漢方医をしていた中村吉兵衛は鞆の浦で保命酒を作る。 |
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1655〜 |
明暦2 |
中村市右衛門 |
渡守神社 | 水野勝貞、明暦年中の奉行・中村市右衛門に命じて渡守神社を再興。 |
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1659年 |
万治2 | 大阪屋 | 上杉平左衛門の孫、のちの初代・上杉平左衛門、米酢、梅香を創醸 | ||
保命酒 | 中村吉良(のちの初代・吉兵衛)、上阪していた万古屋六右衛門に同伴し、鞆へ移住する。 | ||||
1661年 |
寛文元 | 医王寺 | 水野勝貞が修築 | ||
地蔵院 | 寛文年間(1661~1672年)には荒廃し、落莫。 | ||||
圓福寺 | 本堂は寛文年中(1661~1673)の建立。 | ||||
淨泉寺 | 本堂は寛文年中(1661~1672)再修。 | ||||
1662年 |
寛文2 | 保命酒 | 中村吉良(のちの初代・吉兵衛)、薬草16種類を加味調合し、「保命酒」として販売。 | ||
1663年 |
寛文3 |
水野勝種 | 水野勝種 | 数え3歳で福山藩を相続。 領内の神社仏閣の再興や造営を行った。 |
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1665年 | 寛文5 | 大観寺 | 鞆の津塔(仮称) 寛文5(1665)年に鞆の商人・表屋が建立。 |
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1667年 |
寛文7 |
医王寺 | 焔魔堂が完成。 | ||
1670〜 |
寛文 |
地蔵院 | 荒廃し、落莫するが、深宣という僧侶が再興する。 | ||
1672年 |
寛文12 |
河村瑞軒 | 河村瑞軒による西回り航路の整備以後は、北前船や九州船が鞆の津に寄港し、鞆商業は著しい発展を示す。 | ||
1673年 |
延宝元 |
水野勝種 | 船番所の上手には、延宝年間(1673~1680)に鐘楼が建ち、時を告げるだけでなく、港周辺で緊急事態が起きたときも打ち鳴らしたようです。 |
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保命酒 | 中村吉兵衛、酒造株の許可を福山藩に申請し、権利を得る。屋号を「生玉堂」とする。 | ||||
1673〜 |
延宝 | 藤井六郎右衛門 |
顕政寺 | 顕政寺・四代目の日富は、1673~1680年(延宝年中)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。 | |
妙蓮寺 | 二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て境内門前を広めた。 | ||||
阿弥陀寺 | 述宝年間(1673~1680年)に関町の豪商・大阪屋初代・上杉平左衛門が観音堂建立、同年、地蔵堂を道越町・堺屋が建立したものと伝えられる。 | ||||
1674年 | 延宝2 | 正法寺 | 宝冠をつけた釈迦如来。「木造釈迦如来坐像」は、像内に「延宝二年大坂本町五丁目安阿弥未世中奥 大佛師 坂上宮内法橋宗慶甲寅正月吉祥日」と墨書されている。 | ||
1675年 | 延宝3 | 阿彌陀寺 | 「石造地蔵菩薩坐像」は、延宝三(1675)年、わざわざ遠方の名石工・肥前州小城郡の富永仁右衛門に製作を依頼したもの。 鞆の商人が先祖の供養につくったもので、その豊かな経済力もみてとれる。 |
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1676年 | 延宝4 | 正法寺 | 「木造達磨大師坐像」の像内に「延宝四丙辰年九月達磨大師尊像 大佛師宮内法橋宗慶作」の墨書がある。 | ||
1678年 | 延宝6 | 備後安国寺 | 木造達磨大師坐像造立。 | ||
1680年 |
延宝8 |
尾関左次衛門/ 尾関左治右衛門 |
沼名前神社 | 鞆奉行・尾関左次衛門の呼びかけにより富裕者から一般にかけ浄財を募り、藩邸に出向いて補助金を仰ぎ、鞆祇園阿宮を麻の谷より現地・草の谷へ移転。遷宮法楽は真言宗の信者が勤めたとされる。 | |
極楽橋 | 鞆奉行・尾関左治右衛門により原町と鍛冶町の間に「極楽橋」が架けられる。 ※栄橋、約束橋とも呼ばれていた。 |
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1681年 |
天和元 | 芥川のまき | 『あくた川のまき』発行。 | ||
大観寺 | 玉泉寺(麾尼山) 天和元(1681)年、沼名前神社(当時:祇園宮)再建の時、社前に近すぎたため奉行・尾関左次衛門の命により現在地に移し、新築した。 のち昭和十三(1938)年に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合する。 |
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地蔵院 | 寛文年間(1661~1672年)から約20年近く荒廃し、落莫したが、天和元(1681)年、深宣法印が再興し、今日に至る。 | ||||
1685年 |
貞享2 |
生原勘弥左衛門忠知 |
小松寺 | 慶安年中時より再び境内を割いて社地とされる。 |
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渡守神社 | 社殿が頽廃したので鞆奉行生原忠知をして再建した。「疫隈国(えんのくまのくにつ)社」に比定された 「鞆祇園宮」の境内(現在地)に遷座。 |
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備後国風土記 | 備後国風土記発行 | ||||
医王寺 | 福山四代藩主・水野勝種による本堂の再建。 | ||||
備後安国寺 | 雲版造立。 | ||||
1690年 |
元禄3 |
善行寺 | 元禄3(1690)年の銘ある鐘楼があったと伝えられる。 | ||
慈徳院 | 元禄3年(1690)の文書には「備後国沼隈郡鞆商売人切支丹宗信次女本人・・・旦那寺同所禅宗慈徳院ニ而土葬ニ取置・・・」 『芸備キリシタン史料』とあり、慈徳院とキリシタンの関係は深かった。 |
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1691年 |
元禄4 |
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ケンペル | エンゲルベルト・ケンペル(オランダ使節・商館医)寄港。「江戸参府紀行」に鞆遊郭の記述が残っている。 |
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阿彌陀寺 | 元禄四(1691)年、雲洞和尚が京都の仏師・安清を呼び寄せ。二年がかりで彫作させたといわれる「阿弥陀如来像」。一説には・・・元禄十六(1703)年、鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」が造立。とある。 | ||||
1692年 |
元禄5 |
医王寺 | 仁王門が完成。 | ||
顕政寺 | 再建した正善院日実から数えて第三世が寄進した「大曼荼羅(木額)」。元禄年間の山門、本堂、庫裡が当時のまま現代に残る。 | ||||
1697年 |
元禄10 |
水野勝岑 | 水野勝岑 | 父・勝種の後を受け遺領を継いだが、翌年に数え2歳で死去。 |
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1700年 |
元禄13 |
松平忠雅 |
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松平忠雅 | 資料なし。1710年には奥平松平家桑名藩初代藩主となる。 |
鞆遊郭 | 奈良屋・広嶋屋・黒格子屋・吉野家を四軒屋と呼んだ。黒格子屋・吉野家は比較的早く潰れ、元禄(1688-1704)以後の鞆港の発展に伴って姫路屋と福島屋に入れ替わった。 | ||||
1700〜 |
元禄 |
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福禅寺 | 憲意上人により、堂塔が再建され、「輪奐の美」を極める。 |
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1688〜1704 |
1688~1704(元禄年間) 本堂やそれに隣接する客殿(対潮楼)を建立。 江戸時代初期に鞆城の城郭の1角として遠見番所の役目も持つ。 |
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1710年 |
宝永7 |
阿部正邦 | 阿部正邦 | 阿部正邦53歳、下野宇都宮藩から転封 |
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1711年 |
正徳元 | 阿部正邦 | 3月28日に福山へ入国「指出帳(宝永差出帳)」を全村から提出させ領内の実情を把握。差出帳内容:各村の石高・寺社・商品作物・鉄砲など村の概要と年貢納入方法・五人組などの諸制度発足。各郡奉行から村々へ治安に関する条項を中心とした「条々」35ヵ条を公布。 | ||
1711年 |
正徳元 |
朝鮮通信使 | 第8次朝鮮通信使、鞆の浦へ寄港。「福禅寺」泊。「日東第一形勝」と讃える。将軍・家宣襲封祝賀 正使/趙泰億 |
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圓福寺 | 円福寺の山号{南林山」と大書し、「朝鮮国花菴書」と署名のある扁額で、 正徳元(1711)年の朝鮮通信使の写字官、花菴の書を木彫扁額にしたもの。 |
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1711〜 |
正徳年 |
阿部正福 | ささやき橋 | 阿部正福、正徳年間の初旬、鞆の浦に来て「一株の笹」を植える。その時、「橋のたもとに遊女がいて、行き交う人の袖をとらえてささやきける」ことから「ささやき橋」と名前がついた。とする。 | |
1715年 |
正徳5 |
後藤新八 |
阿部正福 | 阿部正邦、江戸にて死去。四男 正福が16歳で福山藩を相続。 | |
小倉善左衛門 |
船宿老制度 | 鞆奉行・小倉善左衛門により出入する船舶の積荷に運上銀(税金)の取扱いと港内の治安を維持する「船宿老制度」が始まる。 | |||
1716年 |
正徳6 | 南禅坊 | 寺庭が狭い理由を官に願い出て現在地に移転する。 | ||
1717年 |
享保2 |
百姓一揆 | 秋に福山藩領全域にまたがる百姓一揆が勃発 | ||
1719年 |
享保4 |
朝鮮通信使 | 第9次朝鮮通信使 寄港。将軍・吉宗襲封祝賀 正史/洪致中 |
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1721年 |
享保6 |
芦田川 | 芦田川の氾濫 | ||
1722年 |
享保7 |
医王寺 | 宝篋印塔、「各投浄財造之」とあり、宗派を問わず多数の町人が寄進した。 | ||
1726年 |
享保11 |
堀金右衛門 |
沼名前神社 | 祇園宮への信仰心篤かった鞆奉行・堀金右衛門により従来より尚一段高い場所に本殿を遷し、拝殿を今までの本殿跡に据え、社庭を広く拡張する為、埋立工事を行い、石垣を高く築いて高い石段を設けた。増改築を施し、現在の社殿の基礎を固めた。※篠原左門は自家所有の土地を売却して随神門を寄進した。と子孫に伝えている。 | |
1728年 |
享保13 |
平賀源内 | 平賀源内、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。 | ||
1730年 | 享保15 | 大観寺 | 宝嚴寺(恵日山)真言宗草戸明王院末 享保15(1730)年以来、無住にて荒廃。のち昭和十三(1938)年に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合する。 |
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圓福寺 | 「宝篋印塔」は、「享保十五庚戌年」(1730年)に鞆の商人が建立した。この塔には年紀のほか供養文言や、「海船」の安全を祈願する文言を刻んでいる。また鞆港などの景観に見事に調和した塔である。 | ||||
1735年 |
享保20 | 加藤杢兵衛忠治 |
沼名前神社 | 随神門改築 | |
1737年 | 元文2 | 大観寺 | 増福寺(令法山)真言宗草戸明王院末 元文二(1737)年鋳造の鐘は郷分村・栄久庵にある。 のち昭和十三(1938)年に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合する。 |
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1739年 | 元文4 | 妙蓮寺 | 四代・日義、元文四(1739)年鐘を鋳、妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建され、六代日了、七代日行、本堂再建。 | ||
1748年 |
延享5 |
朝鮮通信使 | 第10次朝鮮通信使来航、往路では不手際があり、通信使は船上に宿泊したとされる。7月10日復路「福禅寺」宿泊。通信使は夜景を多いに楽しみ、瀬戸内の多島海を眺望出来る客殿を「対潮楼」と銘々。家重襲封祝賀 正史/洪啓禧 |
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1752年 |
宝暦2 |
平賀源内 | 平賀源内、江戸にて本草学者田村藍水に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門し聖堂に寄宿。 | ||
1754年 | 宝暦4 | 大観寺 | 常喜院(東英山)真言宗草戸明王院末 宝暦四(1754)年六月、台風により沼名前神社(当時:祇園宮)鳥居脇の大松が倒れ、山門が倒壊 のち昭和十三(1938)年に、増福寺・玉泉寺・地福院・宝嚴寺・常喜院の五ヶ寺を統合する。 |
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本願寺 | 福山領内の時宗の寺は二ヶ寺で、いずれも鞆の浦にあった。原村の雲羅山福寿院永海寺は宝暦四(1754)年に焼失しそのまま廃寺となる。 | ||||
1756年 | 宝暦6 | 頼杏坪 | 七月、安芸国竹原(現広島県竹原市)にて出生。 | ||
1759年 | 宝暦9 | 慈徳院 | 「石造薬師如来坐像」の形式は阿弥陀如来と思えるが薬師如来として信仰されている。 豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、分取品として持ち帰ったものと伝えられている。 |
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1763年 |
宝暦13 |
阿部 正右 | 平賀源内 | 平賀源内『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心を持ち、洋書の入手に専念するが語学知識が無く、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行う。 | |
淨泉寺 | 「海寶山」の扁額は宝暦十三(1763)年、朝鮮通信使が投宿の際、学士正々斉の揮毫(きごう)と云われるが、現在は不明。 | ||||
1764年 |
明和元 |
平賀源内 | 平賀源内鞆に寄宿。源内焼きの製法を伝授。寄宿先の溝口家が生祠を建立。 | ||
1765年 | 明和2 | 備後安国寺 | 大修理/以後江戸期に計4回の修理を経た | ||
1769年 |
明和6 |
阿部正倫 | 阿部正倫 | 正右の死去により福山藩主を継いだが、藩の財政は危機的状況に加え、天候不順が重なり一層の収入不足による一揆の勃発により改革は後退した。 | |
1776年 |
安永5 |
平賀源内 | 長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。 | ||
1777年 |
安永6 |
鞆遊郭 | 治安上、他の地域とは木戸による境界が設けられ、「道越町定め」として、有磯町に対し15ケ条の法度が公布される。 | ||
圓福寺 | 「芭蕉の句碑」1777(安永6)年に建てた句碑。この句の前文に「二見の図を拝みて」とあり、1689(元禄2)年伊勢の絵を見てよんだ画賛です。現在あるものは文政十(1827)年に再建したもの。碑文は備後の俳諧の指導者、花屋庵鼎左(はなやあんていさ)の筆。 | ||||
1780年 |
安永9 |
頼山陽 | 12月27日出生 | ||
1787年 |
天明7 |
天明大一揆 | 正倫 老中就任を祝う臨時税を領民に課さんとしたところ、福山藩全域を席巻した藩史上最大の一揆が勃発。 | ||
1790年 |
寛政2 |
琉球使節団 | 琉球使節団 寄港。楽師 向生が病死。 小松寺に葬られる。現在もその墓碑と本堂にゆかりの扁額が掲げられている。 |
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雁木 | 荷役浜大雁木建立 | ||||
1791年 |
寛政3 |
波止 | 備前児島の栄五郎によって、大可島下から50間(約90m)、淀姫神社下から20間(約36m)の波止が造られた。 | ||
1792年 |
寛政4 | 大阪屋 | 九代目・上杉平左衛門/清憲生まれる | ||
1796年 |
寛政8 |
琉球使節団 | 琉球使節団 楽師 向生7回忌の供養に訪れ、「容顔如見」扁額が本堂に奉納される。 | ||
1797年 |
寛政9 |
静観寺 | 火災 | ||
1803年 |
寛政2 |
阿部正精 | 阿部正精 | 正倫の隠居により30歳で家督を相続。財政再建を継承し経費削減と負債償還を目指して特定の豪商・豪農に便宜を図り藩財政に寄与させ、鞆港(鞆の浦)の整備に力を入れた。 | |
1804〜 |
文化 |
雁木 | 豪商大阪屋が、東浜を開き亀の甲(石積み雁木)とズベリ(石積み石送)を建立。 | ||
大蔵 | 現在の「いろは丸展示館」建立。池田家所有の蔵で、鞆の浦では「大蔵」と呼ばれている。 | ||||
1811年 |
文化8 |
大波止 | 工楽松右衛門により、大波止の修理と延長が行なわれ、現在の80間(約144m)の長さになる。 |
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雁木 | 湧出(わくで)を埋め立てた時の保銘酒浜大雁木(湧出港大雁木)を福山藩が建立。 | ||||
1812年 | 正法寺 | 「木造開山深渓濬坐像」は曲ろく(いす)の裏面に「維時文化第九壬申冬十月右厄當寺開山深渓濬和尚尊像 大雄山正法襌寺 住持恵耕謹鼎造」の墨書がある | |||
1813年 |
文化10 | 大阪屋 | 十代目・上杉平左衛門/清章誕生 | ||
1814年 |
文化11 |
頼山陽 | 頼山陽 大阪屋別邸にて「対仙酔楼記」を書く。 | ||
1815年 |
文化12 | 大阪屋 | 7月17日、七代目・上杉平左衛門/清直死去 | ||
1817年 |
文化14 | 静観寺 | 火災 | ||
1819年 |
文政2 | 指山和尚の奔走により本堂は再建する | |||
1822年 |
文政5 | 南禅坊 | 8月に火災に逢い全焼。以後約40年近く放置されたままだった。 | ||
正法寺 | 「羅漢堂」文政五(1822)年建立。 | ||||
1823年 |
文政6 | 吉田孝右衛門 |
鞆港 | 鞆奉行・吉田孝右衛門は福山藩主・阿部正精に前任奉行・下村左門による防波堤の構築と港内の浚渫、築港方針に関わる助成を懇願。文政6年正月より着工し、翌年二月に完成させる。 | |
1824年 |
文政7 |
阿部正寧 |
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不明 | 平防波堤竣工 |
チョウサイ | 鞆港に初めて防波堤(波止)完成、築港祝いで鞆町内が湧き、江の浦町が始めて神輿太鼓を作った。 | ||||
常夜燈 | 大阪屋上杉平左衛門により常夜燈寄進、以後、油の提供と燈火の管理を引受ける | ||||
妙蓮寺 | 山号標、文政七(1824)年成就。 |
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1826年 |
文政9 |
ペリー | ペリー日米和親条約 鞆の酒「保命酒」を飲む。 | ||
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シーボルト | 6月23日。シーボルト(オランダ人医師)来訪。医王寺を訪れ、ツツジや松の観察のため、現・太子殿までの小径を登った。 |
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1829年 |
文政12 | 大阪屋 | 9月26日、八代目・上杉平左衛門/清直死去。勝音寺(現在は安国寺と併合)の墓標の法名は頼山陽の筆によるもの | ||
1831年 |
天保2 |
大洪水・大凶作 | 福山藩、天保2年の大洪水、その翌年は大凶作。 |
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1832年 |
天保3 | 頼山陽 | 晩年住んでいた京都、水西荘の書斎「山紫水明處」にて死去。 | ||
静観寺 | 8月、落雷にて大破。 | ||||
1834年 | 天保5 | 頼杏坪 | 七月二十三日、広島において没。広島比治山安養院に眠っている。享年79歳。 | ||
1836年 |
天保7 |
大凶作 | 福山藩、大凶作に見舞われる。 11月15日(1月3日)坂本龍馬、出生。 |
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妙蓮寺 | 鬼形鬼子母神安置一碑、天保七(1836)年三月浣日 | ||||
1836年 |
天保7 |
阿部正弘 | 阿部正弘 | 正精の五男、兄 正寧が病弱だったため、12月25日、28歳の正弘を養子にして家督を譲った.大胆な人事登用を行い。人材育成のため、1853年(嘉永6年)には備後福山藩の藩校「弘道館(当時は新学館)」を「誠之館(せいしかん)」に改め、身分に関わらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。1852年(嘉永5年)から加増された1万石もほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。 |
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1847年 |
弘化4 |
小倉脇 |
玉津島波止 | 柴田宗左衛門により玉津島防波堤竣工。 全長146m。5ヶ月半の工事期間と1200両の工費をかけて福山藩が施工した。玉津島から尻尾が生えた鼠のようにみえることから、「ねずみ島」とも呼ばれるようになる。この防波堤は2010年まで破損したことがないという。 |
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大阪屋 | 十代目・上杉平左衛門/清章死去 | ||||
1848〜 | 嘉永 | 善行寺 | 元禄3(1690)年の銘ある鐘楼があったが、黒船騒ぎの際、海岸防備のため供出を強いられた。 | ||
1849年
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嘉永2 |
鞆ノ平武右門 | 9月18日、村上 武右衛門出生。 |
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1850〜 |
嘉永 | チョウサイ | 彫刻師・梅蘭(ばいらん)作、関町のチョウサイが、豪商・大阪屋により制作される | ||
1853年 |
嘉永6 |
福山藩 | 誠之館の創立。 |
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坂本龍馬 | 剣術修行のため涌町千葉道場に入門。 |
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1854年 |
安政元 |
日米和親条約 | ペリー来航。3月3日、日米和親条約締結。この時、饗宴の席にて保命酒が添えられる。 |
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安政東海大地震 | 12月23日、安政東海大地震M8.4(推定)駿府城・掛川城が倒壊。翌日、豊予海峡を震源とするM8.4(推定)の地震が起こり、伊予から土佐にかけて家屋倒壊および火災により多くの人命が失われた。土佐・久礼では16Mの大津波があった。 | ||||
1855年 | 安政三大地震 | 11月11日深夜、江戸M6.9(推定)の直下型地震がおこり、江戸城半壊 | |||
1857年 |
安政4 |
阿部正教 | 阿部正教 | 正寧の長男。(叔父)正弘の死去により19歳でその家督を継いだ。 | |
大阪屋 | 九代目・上杉平左衛門/清憲死去 | ||||
1858年 |
安政5 |
常夜燈 | 保命酒浜の常夜燈を町衆が寄進。一説には安政6年(1859年建立とも) この年、坂本龍馬は剣術修行を終え、土佐に帰国する。 井伊直弼により「安政の大獄」処刑された中には頼山陽の息子・三樹三郎もいた。1860年には「桜田門外の変」により井伊直弼は暗殺された。 |
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南禅坊 | 十二月十二日、梵鐘、供出。 のちに、寺院調査の中で「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した貴重な史料が見つかる。 |
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正法寺 | 十六羅漢像(安政五年・1858年)を安置したお堂は、鞆町の信者より寄進された。 | ||||
コレラ大流行 | 江戸にて死者は10万人という説がある。 | ||||
1860年 |
萬延元 | 南禅坊 | 文政5年(1822年)8月の火災による全焼から約40年放置されたままだった南禅坊が再建。 | ||
1860年 |
萬延元 | 住吉大明神 蛭子神社 |
住吉大明神・蛭子神社 建立。 |
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1861年 |
文久元 |
阿部正方 | 阿部正方 | 正教の弟。14歳で藩主に就任 | |
1862年 |
文久2 |
坂本龍馬 | 坂本龍馬脱藩。吉田東洋暗殺される。 坂本龍馬、松平春獄の紹介状を携え12月、勝海舟の弟子となる。 |
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1863年 |
文久3 |
七卿落ち | 坂本龍馬、勝海舟・神戸海軍操練所の設立に尽力。神戸海軍塾の塾頭を勤める。 8月18日の政変により京から逃れた、尊皇攘夷派の三条実美ら七卿が鞆に寄港。中村屋(太田住宅)に宿泊。 |
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1864年 |
文久4 | 再び京都を目指した三條実美らは7月18日から20日まで、保命酒屋(現大田家住宅)に宿泊した。一行は20日に鞆ノ浦を発ち、京を目指して21日に多度津へ入港したが、そこで蛤御門の変を知り、急遽鞆ノ浦に集結し、再び長州へと下っていった。 | |||
1865年 |
慶応元 | 梅谷皿山焼 (鞆焼) |
梅谷皿山焼(鞆焼)開窯とされている。(福山市鞆町扇浜)明治12年には廃釜したが、ほそぼそと蛸壷や漁具、日用雑器などをつくり、昭和13年まで煙をあげていた。 | ||
1866年 |
慶応2 |
坂本龍馬 | 1月、坂本龍馬の斡旋により、薩長同盟が結ばれる。1月25日、寺田屋事件。2月29日、お龍と結婚。3月4日、薩摩へ新婚旅行をする。6月2日、薩摩を出港。 |
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1867年 |
慶応3 |
いろは丸 | 海援隊を創設。4月19日、海援隊約規を書いたのち、長崎を出港。4月23日坂本龍馬「いろは丸」大阪へ初航海中、鞆沖にて紀州の軍艦「明光丸」と衝突沈没。賠償交渉を行う。鞆の浦での談判は述べ4日間、対潮楼、魚屋萬蔵宅などで行われた。 5月28日、紀州藩が8万3,526両198文の損害を賠償することで決着。 |
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圓福寺 | いろは丸事件の時には紀州藩の宿舎 | ||||
対潮楼 | いろは丸事件談判場所 | ||||
魚屋萬蔵亭 | いろは丸事件談判場所 | ||||
淨泉寺 | 四月、いろは丸事件談判の際、坂本龍馬(当時の変名:才谷梅太郎)が浄泉寺を訪れ、観音像に交渉の進展を祈願したという話は記録には残されていないが、寺の檀家の間で語り継がれてきたという。 | ||||
1867年 |
慶応3 |
坂本龍馬 | 11月15日(12月10日)京都近江屋にて坂本龍馬暗殺される。1ヶ月後、明治天皇により王政復古の大号令が発令。 | ||
1868年 |
慶応4 |
阿部正桓 | 阿部正桓 | 18歳で備後福山藩9代藩主 正方の養子となり、名を正桓と改め5月20日福山城へ入り第10代藩主となる。 (初名:浅野元次郎) |
鞆史ⓒ2010-2011 全国一斉 鞆の浦検定 |